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私の夢

〜私の夢〜

27.12.22 職員会議講演資料

中新田自立スクエア 三橋 裕治

 

(自分の夢を語るなど、到底しらふの状態ではできっこない為、原稿を読みながら話を進めさせて頂きますことを、お許し下さい。)

 唐突ですが、私は強迫性障害です。

それが表題の「夢を語る」にどう関係するんだ、という事ですが、

ここにおられる皆様は、障害者福祉のプロの方たちでいらっしゃいますので、偏見など1000%無いという安心感のもと、話しをさせて頂きます。

 私は福祉の業界自体、ここ中新田自立スクエアが初めてとなります。以前は、長らく葬儀業界に身を置いておりました。とは言っても皆さんの想像する、いわゆる街の「葬儀屋さん」という職業とはだいぶ違うもの、隙間産業といってもいいかもしれません。

会社は日本橋に本拠を置き、警視庁管内刑事課の扱う事案を専門として請け負っておりました。24時間体制、年中無休で盆も正月も関係ありません。若手の頃は月の半分以上が泊まり、3連泊など当たり前の勤務でした。当直が明けてもそのまま勤務という勤務体系でしたので、月に3、4日あればまし、という程度の休日はほとんど飲んで遊んでタクシーで朝帰りというのが定番で、育児は無論、子供の幼稚園や学校の行事など全く参加などせず、興味もやろうとも思いませんでした。

ですから、私が知らない間にどんどん2人の娘は成長していった訳です。

上の娘がまだ幼かった頃、私が出勤するときに「またね〜!」と手を振られたことは、多少の罪悪感と後ろ髪を引かれる思いにはなりましたが、自分はこれでいいのだ、とそんな思いを振り切りました。

仕事はやがて業務拡大に伴い、ある大学病院の管理を任されるようになりました。

社では病院最寄りの神田と板橋にマンションを借り上げ、そこでも24時間体制で常時待機という形態がとられました。

この頃の私は、非常に多忙でした。これらの病院に加え、警察、寺院を得意先として持ち、営業から葬儀施行まで責任が広範囲となって疲労度もピークとなっていました。

葬儀社の仕事でミスは許されません。特に警察が介入するような案件では様々な配慮を伴います。たった一度のミスも絶対に許されません。賢明な皆さんなら容易に想像はつくことかと思いますが、

人の葬送はやり直しがききません。「次は間違いなくやらせて頂きます」とか、「失

敗しました、やり直させて下さい。」はあり得ないのです。

病院のベッドで天寿を全うし、終始和やかな葬儀しか施行しない町場の葬儀社を羨ましく思った反面、おまえらとは違うとプライドをもっていました。

 私はおよそ10年の間、ポケベルや携帯電話に縛られてきました。

当時、なぜ自分自身でもっと早くこれはおかしいと感じられなかったのか、今さら思っても仕方のないことなのかもしれません。

いつしか私は、電話の着信音が常に聞こえるようになりました。しかし、電話をとってみても、かかってきていないのです。

日本人はよく自身の不健康自慢や寝てないアピールをしたがると言われています。ご多分に漏れず、その頃の私は、3日間で5時間程度の睡眠でした。それも連続して取れるものではありませんでした。私は、いつの間にか自分が起きているのか寝ているのかさえ分からなくなっていました。今でもたまに眠れないことがあると、非常に恐怖を感じます。

ある時、宿舎で仮眠をとっているとき、私は自分の声と体の痛みで目を覚ましました。周囲を見ると書類や茶箪笥、TVなど様々なものが倒れたりめちゃくちゃになっていました。そして、ふと部屋の隅に視線を移すと、一緒に当直していた先輩が私を見て震えながら座っていました。私はしばらくボーっと立っていたと思いますが、あれは夢じゃなかったんだとそのうち気が付きました。夢の中で私の大切なものに手を出そうとする者に対して、守ろうとして起こした行動は、驚くことに現実的な行動として起こしてしまったんだと気が付いたのです。

さらに、このことを起こした日から数日前にも、私は寝ているときに立ち上がって怒鳴っていたことを聞かされました。これには心当たりがありました。

「ちょっと疲れているだけだ。お前は大丈夫。」というその先輩を押し切り、社長に一部始終を話しました。先輩がなぜ止めようとするのか、答えは明白、自らに比重が掛かることを避けたかったのだと思い、悲しい気持ちになりました。社長はお茶の水にある大学病院の精神科を薦めてくれ、「休め。良くなったら頼むぞ。」とそれだけ言ってくれました。私はその時、やっと休めるという安堵感の一方、俺は負けたんだ、という強い挫折感を感じました。

 私は退職し、自宅静養しながら通院することになりました。

何もせずに何もやる気が起きずに、ただただ寝ているだけの日が続きました。いくら寝ても足りないと感じ、睡眠に対する欲求は非常に強いものでした。これは眠剤のもたらす作用とは別と考えています。

朝からカーテンを閉め「行ってきます」と声が聞こえると「学校へ行くんだな」と思い、そのうちまた「行ってきます」と聞こえると妻が仕事に出かけるのだなと思い、そうすると家の中は静かになる。無理やり起きてトイレへ行くときリビングテーブルを見ると、「おはよう。ご飯は〜を食べてね。」と置き手紙がある。

今まで長く家にいる時間が無かった分、一人で留守番の用も足さないでいる時間がとてつもなく長く感じ、また妻が外に働きに出て、男の自分が、ただ家で寝ている状況が情けなく、自分を強く恥じそして責めました。

そして、自分が居なくても仕事が回っている状況を知ると、「自分がこれまでやってきたことは何だったんだろうか?」とか「自分は社会に必要のない人間なのだ」と強い疎外感や孤独感を感じるようになりました。

 一方、在職中から過剰なまでに、家族の様子が気になって仕方ないという様子も見られるようになっていました。それまでは夜に一本、電話をするだけでしたが、昼から夜中、昼夜問わず自分の時間の許す限り連絡をし、安否を確認するのです。

この異常行動は強迫性障害の始まりでした。うつ状態が強く表れている際には、その陰に隠れるように見えたものが段々と表出レベルが上がっていき、自宅で静養している時にはそれが顕著なものとなっていました。

自らの症例を検証すると、被害恐怖を起因とする症状が、如実に表れていることが分かりました。

例えば確認強迫です。家の鍵、給湯器の電源、ガスの元栓、当時乗っていたバイクの安否を執拗なまでに確認するようになりました。

どれをとっても私にとって、ライフラインとして重要なものばかりでした。

私は生活の為、しかし何より捨てきれない自身のプライドやメンツの為にも、早く外に出て働かなくてはならないと考えました。とは言っても、朝は活動する自信など無い。それに人と関わって仕事をすることなんて到底できない。そこで私は人が活動しない時間にこっそりできる仕事は何かを考えました。それが某衣料品チェーンに深夜、店舗配送する仕事でした。

出勤の際、家の施錠やガスの元栓などが気が気でなく、何度も行ったり来たりを繰り返しました。当時、私はマンションの最上階に住んでいたのですが、下へ降りては戻りを幾度となく繰り返しました。何度確認しても、不安がぬぐえないのです。

例えば家の鍵を掛けたと確かめたとしても、エレベーターの中で「もしかすると掛けた後、ドアノブをガチャガチャ確認した拍子に開錠してしまったかもしれない。」とか「鍵を掛けて、確認したときに

ひょっとしたら違う考え事をしていて確かめ損じている可能性がある。」など、そんなことはないだろうと、馬鹿げた考えだと思いつつも不安を払しょくできなくて確認行動を起こし、安心感を得ようとする。しかし、何度確認しても納得できる安心感が得られず、その行動を繰り返してしまうというものです。

こんなことをしていたら時間がいくらあっても足りません。運良く出勤できたとしても、普通の会社勤めなら間違いなく遅刻です。

しかし、これが運送業の良いところ。遅れたって、結果的にどこかで埋め合わせて、納品時間内にきちんとした荷姿で納めればそれで良いのです。さらに同じ仕事をする仲間にもだいぶ救われました。

コンピューター制御されている商品センターの出荷システムを、他の運転手らの申し出によって、私と彼らの順番を変更してくれるようセンターへ申し入れてくれたのです。おかげで私は一番遅い時間枠での積み込み作業が出来るようになりました。

私が社会復帰できるようなきっかけを作ってくれた、この仕事や周囲のドライバー、会社には大変感謝しています。恵まれた環境の中で、もっとやれるという意欲を持つことができ、荷役に付随する資格を取得したり、最終的には大型に乗って全国を回れるまでになれたことは、大きな自信となってゆきました。

いつの間にか精神科への通院も行かなくなっており、およそ1年半ほどで通院を終えました。

今改めて考えますと、運送業への転職がエクスポージャーや反応妨害に大いに繋がったのではないかと考えています。

 体調が良くなり自信も持てるようになった私は、かねてから就きたいと思っていた障害者福祉を現実的に意識するようになりました。

それは、私のような人の気持ちを汲み、共感したり、あるいは代弁していきたいという思いからでした。

お恥ずかしい話、職業を選択する上で、今までこんな理由から職を選んだことなど一度たりともありませんでした。

志したのはいいものの、クリアしなければならないハードルが多々ありました。しかし、私の心配をよそに妻は「やってみたら。」と何でもないという風に言ってくれました。これが大きな後押しとなって、縁あってこちら中新田自立スクエアで支援員をすることとなったのです。

 私は今の仕事に就く際、福祉の事などまるで無知でありながらも、漠然とですが、人の働くという活動に携わりたいという思いがありました。

働くという事は人生であり、喜びであることを利用者とともに、私も感じていたい。また、社会との溝や距離感を少しでも詰める事が出来たらどんなに良いか。それが私のような経験をした人間として出来る事であり、やりがいを持って取り組めることなのではないかと考えました。

長くなりましたが、私は将来、様々なハンディを持った人や、生き辛さ、苦しさを持った人たちがそのままの自分でやりがいやプライドを持って生産的な活動をして行ける場を作りたいと思います。

そして、次の目標やステップを見つけたり繋げられるような職場を作りたいと考えています。こういった思いはこの仕事に就く前から思っていました。ただ知識や経験もないその時は単なるゴールでしかありませんでしたが、少しづつ知識・経験を重ねると、それぞれの点が線になりつつあることが実感できるようになりました。

まだまだ繋がっていない細い線ですが、ゆっくりでも少しづつ進んでいけばそれでいいと思っています。

私は最近、ある発達障害を持つ人たちの集いに参加しました。

この会はいわゆる当事者会なのですが、堅苦しくミーティングするというのでなく、支援者の参加もOKで酒を飲んで思い思い言いたいことを吐き出そうというラフな会です。

そこで、ある当事者にこんなことを言われました。

「就労を考えた時、福祉就労か一般就労、障害者雇用枠で選択するしかないなんて。」これには大きく頷けました。私たち支援者はこの選択肢を当たり前と思っていないか?

例えば、今日の一般企業における障碍者雇用率は1,9%であり義務の2%に間もなく到達する見込みとのことです。しかし、からくりを言えばそのほとんどが大企業であり、特例子会社などを設立し、そこが6%近くを占めており、全体の実雇用率を引き上げている状況です。

私は、障害者手帳や受給者証のある人もない人も、難病などの内部障害を持つ人も同様に、保証された労働環境を作りたいと思います。

詳しくは申し上げませんが、従来の企業内授産事業とは違う、施設外就労ともまた違うアウトソーシング事業として個々の生計の維持や連帯の実現などを目指した事業が出来ればと考えます。

そして、その職場で働き続けることを望むなら居ればいいし、違うことをやってみたい、チャレンジしたいと言うのなら応援してあげられるような、なかぽつ(障害者就業・生活センター)と同様な役割も同じく担えればと考えています。

 最後になりますが、お配りしたプリントは先ほど話しました、発達障害の会でお会いした方の手記です。発達障害については現在の4障害中、最後に法整備された障害となります。それだけに、まだまだ法改正の余地がある分野だと感じています。

私たちは、主に知的障害の方を対象に福祉サービスを行っています。それだけに「障害者福祉」というと、身近な利用者を連想しがちですが、世間には内部障害などの難病患者など、セーフティーネットから漏れている人たちが、まだ沢山居るということを皆さんに再認識して頂きたく、ご一読頂ければと思っております。

以上

  • 2017.01.25 Wednesday
  • 16:48